アルデバラン

一般社団法人アルデバラン

「最期をどう生きるか」を考える時代へ〜ACPが私たちに問いかけるもの〜

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「人生の最終段階の医療・ケア」について、あなたは誰とどのように話し合っていますか?

2025年、日本老年医学会が「立場表明2025」を発表しました。これは高齢者の医療・ケアのあり方を見直し、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)への理解を深める重要な提言です。私も医療・福祉の現場に長年携わり、この内容には深く共感し、強く心を動かされました。

私たちは、なぜ「最期」を語るのをためらうのか

ACPとは「自分の人生の最終段階にどう向き合い、どのように過ごしたいか」を、本人・家族・医療者が繰り返し話し合うプロセスです。決して“死を話す”ことが目的ではなく、“どう生きたいか”を見つめるためのものです。

しかし、私たち日本人には「終わりを語ることは縁起でもない」「死については医師に任せればいい」といった文化的な背景が根強くあります。20年前に施設にて看取りケアを開始した際、ご家族への死への過程の説明時に、多くの家族が抵抗を感じていることが伝わってきました。だからこそACPは難しく、時には誤解され、時には形式的な書類作成で終わってしまうのです。

胃瘻(いろう)をめぐる選択と葛藤

私が高齢者ケアに関わり始めた2000年代初頭、病院や施設では「とりあえず胃瘻」が当たり前のように行われていました。意識がなくなっても、口から食べられなくなっても、「栄養を入れないと死んでしまう」という医療者や家族の“善意”が、患者さんの「生」を延ばしていたのです。

しかし、2012年に日本老年医学会が発表した「立場表明」は、その価値観に風穴を開けました。「年齢や認知症の有無にかかわらず、本人の尊厳を守るケアを」と提言され、胃瘻の適応についても「QOL(生活の質)」を考慮した判断が求められるようになったのです。

現場にいた私は、これを待っていました。というのもこの立場表明がない段階で、私は現場で尊厳を守るケアをスタッフやご家族に話していたのですが、そのエビデンスがなく本当にこれで良いのかと思うこともあったからです。

この動きは、胃瘻新規造設数の減少という形で大きな影響を与えました。しかし一方で、「胃瘻は悪」という極端なイメージも広がってしまい、本来必要な人が適切なケアを受けられないという“副作用”も生まれました。

「立場表明2025」は何を語るのか

2025年版では、より深化した視点でACPと高齢者ケアのあるべき姿が語られています。特に印象的だったのは、以下の5つのポイントです。

1. 人生の「最終段階」を見つめ直す

「終末期」という医学的予後に基づく言葉ではなく、「人生の最終段階」という本人の“物語”を重視する表現に変わりました。その人がどんな人生を歩み、何を大切にしてきたか──その延長線上で、残された時間をどう過ごすかを考える視点が必要です。

2. 「満足」をケアのゴールに

治療成績や延命の数値ではなく、「本人が満足しているか」「穏やかに過ごせているか」が最も大切な指標であるという考え方が示されました。たとえ“治すこと”ができなくても、“支えること”でQOLを高めることができるのです。

3. 非言語的な「意向」を汲み取る

言葉を発することが難しくなった方──特に認知症の方に対して、表情やしぐさ、バイタルの変化から意向を読み取る姿勢が求められています。本人の声を無視して家族とだけ話を進めてしまう医療者がまだ多い中で、この提言は非常に重要です。

4. ACPとSDM(共同意思決定)の関係性

「患者の自律性」だけでなく、日本特有の「察する文化」「家族による見守り」という価値観を尊重しながら、本人を中心にチームで意思決定をしていくSDMの重要性が強調されています。ACPは一回の面談ではなく、関係性のなかで続いていくプロセスなのです。

5. 高齢者救急のあり方を見直す

85歳以上の救急搬送が急増している現実に対し、緩和ケアとの連携や入院による弊害(リロケーションダメージ)を避けるための提言も盛り込まれています。高齢者の身体的・精神的脆弱性をふまえ、在宅や施設でのケアの充実が求められています。

「生き活」という新しい考え方

ACPの研修会などで、一般の方、医療従事者の方に「あなたが将来、口から食べられなくなったら胃瘻を望みますか?」と尋ねると、ほとんどの方が「望まない」と答えます。それでも、現場ではまだ「とりあえずの延命」が行われている──この矛盾をどう受け止めるかが、私たちに突きつけられた課題です。

だからこそ、私はACPを「終活」ではなく「生き活」と捉えたいと思います。

「最期の迎え方」ではなく、「最期までどう生きるか」。
「死に向かう準備」ではなく、「今この瞬間をどう生きるか」。

人は死ぬその瞬間まで“生きている”のです。その人らしく生き抜くためのお手伝いが大切なケアなのだと思うのです。

欧米と日本の違いから見えてくるもの

「北欧や米国には寝たきりの高齢者はいない」と言われています。私も実際にここ数年、ヨーロッパの高齢者施設を訪れていますが、そこに“胃瘻で生かされている人”の姿はほとんど見られません。

フィンランドで高齢者施設の施設長(看護師)と対談した際に、日本では胃瘻造設している高齢者が多くいることを伝えると、「なぜですか?」と理解に苦しむ表情で尋ねられました。これは10年前の出来事ですが、その時の私は明確な回答を示すことができませんでした。

それは単に医療の違いではなく、「どのように生き、どのように人生を終えるか」という価値観の違いだといまは感じています。生きるとは、食べることか、意識があることか、話せることか──何をもって“その人らしさ”とするのかを、一人ひとりが考えなくてはなりません。

医療従事者こそ、ACPを正しく伝えてほしい

ACPは「制度」や「マニュアル」で終わっては意味がありません。対話の積み重ねの中で、本人の声を聞き、支えることがその本質です。

医療者にはぜひ、ACPの“目的”を見失わず、「その人の物語」を聴くことから始めていただきたい。そして一般の方々にも、ACPを“特別なこと”としてではなく、「家族の中で自然に交わす会話」として日常に取り入れてほしいと願っています。

最後に──あなたは、どう生きたいですか?

私たちは、医療の歴史の中で今、大きな転換点に立たされています。高度医療の時代を経て、今こそ「その人らしい人生をどう支えるか」が問われているのです。

あなた自身の「生き方」「大切にしたい価値」は何ですか?
あなたの愛する人の「最期までの時間」を、どのように支えたいですか?

今こそ、一緒に考えてみませんか。
ACPは、すべての人の「生きる力」を支える道しるべになると、私は信じています。

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