アルデバラン

一般社団法人アルデバラン

「生きる」と「死ぬ」をどう捉えるか ― 急性期病院と高齢者施設での35年の経験から

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私はこれまで、急性期病院で15年、高齢者施設で22年、あわせて35年以上にわたり医療と介護の現場で働いてきました。そこで見てきたもの、感じてきたものは、人生観や医療観そのものを大きく揺さぶる体験の連続でした。

急性期病院での「延命至上主義」の時代

私が病院に勤務していた頃は、いわゆる延命至上主義の時代でした。老衰であっても、容赦なく治療や延命が行われ、それが当然のこととされていました。酸素投与、点滴、心臓マッサージ、人工呼吸器…。それらが「医療」であると信じ、疑うことはありませんでした。

しかし、今振り返れば、それが本当に本人のためだったのか、自分の中に深い問いが残ります。

高齢者施設での最初の看取り

転機は、高齢者施設に勤務するようになってから訪れました。90歳の女性が老衰で亡くなられるとき、ご家族の希望で施設での看取りを行いました。

そのときの驚きは、今でも鮮明に覚えています。
「人はこんなにも静かに、穏やかに、自然に死んでいくのか」

私はそれまで、病院での“医療的な死”しか見てきませんでした。必死の処置と機械の音に囲まれた最期ではなく、家族に見守られ、静かに息を引き取る姿を目の当たりにし、「死」を受け入れることの意味を初めて実感したのです。

500名以上の看取りを通して見えたこと

施設では500名以上の方を看取ってきました。多くは認知症を抱えていました。その中には、胃瘻を造設され、管から栄養を流されながら「生かされている」状態の方も少なくありませんでした。

本人の表情は乏しく、家族の声かけにも反応しない。けれども医療的には「生きている」とされる。そんな姿を目にするたびに、私は問い続けました。

「生きるとは何か」
「医療とは何か」

老衰を受け入れ、自然に、穏やかに最期を迎えることが、その人にとって最良の道ではないのか。ご本人はどう思っているのだろう。そのような疑問がいつも沸くのでした。

医師の言葉に深くうなずく

そんな折、とある医師の書き込みを目にしました。その内容は、まさに私が現場で感じてきたことを代弁するものでした。

日本の「入院」は、高度急性期や一部の専門性を除けば、海外では自宅や施設で対応されるようなケースが多い。
高齢者にとって入院は侵襲性が高く、10日間の入院が7年分の老化に相当するという報告もある。
在宅医療の役割は「病院で治療する」と「自宅で看取る」の間に、「自宅で最適な範囲内で治療する」という選択肢を確保することだ。

この言葉に、私は強く共感しました。まさに現場で見続けてきた現実だったからです。

高齢者にとっての入院リスク

高齢者が急変したとき、多くの家族は「病院に連れて行けば助かる」と考えます。しかし実際には、入院による環境変化や医療処置の負担が、かえって心身の機能低下を招くケースが少なくありません。

ベッドに縛られ、点滴やモニターに囲まれる日々。入院前には自分で歩けていた人が、退院時には車椅子や寝たきりになってしまう。認知症が一気に悪化する。そんな事例を何度も見てきました。

在宅での死を支える医療の役割

では、急変したときにすべてを病院に任せるしかないのかといえば、決してそうではありません。大切なのは、その変化が「医療的介入を要するものなのか」それとも「自然な死の過程として受け止め、見守るべきものなのか」を見極めることです。

老衰や持病の自然な進行であれば、慌てて病院に搬送するよりも、住み慣れた場所で穏やかに過ごすことを選ぶ方が、本人にとっては望ましい場合も多いのです。

そしてもうひとつ重要なのは、在宅での死を家族や周囲が受け入れられるように支えていくことです。家族にとって、目の前の変化を「異常」と感じてしまえば、すぐに救急車を呼ぶ選択につながります。しかし「これは自然な老いの流れであり、穏やかな最期に向かう過程なのだ」と理解できれば、慌てることなく落ち着いて見守ることができます。そのための教育やサポートこそ、医療者が担うべき大切な仕事なのだと私は思います。

ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の意義

近年、「ACP(人生会議)」の重要性が強調されるようになりました。本人や家族が、最期の医療やケアについて事前に話し合い、意思を確認する取り組みです。

しかし現実には、せっかくACPで本人の意向を確認しても、それを支える体制が整っていなければ実現できません。

「入院せず、できる限り自宅で過ごしたい」と本人が望んでも、夜間対応できる在宅医療や看護の体制がなければ、結局は救急搬送されてしまいます。

だからこそ、ACPの実現可能性を支える地域の仕組みづくりが必要なのです。

病院に依存しない社会へ

日本は世界でも突出して病床数が多い国です。人口あたりの医師数は他の先進国と大差ないのに、病床数は2〜5倍もあります。その結果、「病院に入れるのが当たり前」という社会構造になっているのです。

しかし、本当に病院でなければならない急性期治療は、それほど多くはありません。地域全体で「病院に依存しすぎない仕組み」を整えることが、これからの日本には欠かせないと私は思います。

「地域医療計画」から「地域ケア計画」へ

医療費や介護費といった社会保障の財源は限られています。その中で、医療と介護・福祉を一体的に考えた「地域ケア計画」こそが必要ではないでしょうか。

病院を守ることだけが目的ではありません。病院が担ってきた急性期医療の機能を、在宅や施設に分散させていくこと。その再定義と資源配分の見直しこそが、超高齢化社会を生き抜くための鍵だと私は考えます。

終わりに ― 「どう生き、どう死ぬか」を考えるために

35年以上の現場経験を経ての私の私見ですが、近年「終活」という言葉が広く使われ、どう人生を“しまうか”ということに注力される傾向があります。もちろん大切なことではありますが、忘れてはならないのは、人は死の瞬間まで生きているという事実です。だからこそ、「どう最期を迎えるか」を考えることは単なる“しまい方”ではなく、その瞬間までをどう生きるのかを考えることにほかなりません。

医療ができることは増えました。しかし、すべてを医療に委ねることが本人の幸せにつながるわけではありません。
静かに、穏やかに、自然に命を閉じるという選択もまた、尊重されるべき「生き方」です。

だからこそ、私は願います。
多くの方に、この現実を知ってもらいたい。
そして、自分自身や大切な人の「最期」をどう迎えたいのかを、しっかりと考えてもらいたい。

考えなければならないのです。今、この瞬間から。

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